みなさん、こんにちは。
フラッペと申します。
今回は、話題の映画「劇場版鬼滅の刃 無限列車編」の考察回となります。
ネタバレを含みますので、それでも良いよって方のみお進みください。
↓↓↓以下、ネタバレあり↓↓↓
夢の世界に閉じ込められる
無限列車編では、炭治郎たちは鬼の術によって夢の世界に閉じ込められてしまいます。
似たような題材を扱う作品として、今敏監督のアニメ映画「パプリカ」や
クリストファー・ノーラン監督の「インセプション」が挙げられます。
私個人の予想ですが、おそらく吾峠先生は、無限列車編の着想としてこの辺の作品を参考にしたのではないかと考えております。
「夢を共有できる」や「脱出方法は夢の中での死」などの多数の共通点があるので興味のある方はぜひ視聴してみてください。どちらも私のお気に入りの映画です。
余談ですが、先生は平沢進ファンという噂もあり、平沢進の楽曲が使われているパプリカを視聴している可能性は高いと思われます。
なぜ夢の世界を舞台にしたのか?
その理由は、無限列車編のテーマを考えると見えてきます。
私が思う無限列車編の物語のテーマは「人の強さ」です。
ここでの強さというワードは、肉体面ではなく精神面での強さのことです。
「人の強さ」を最も際立たせる舞台として吾峠先生は、
夢の世界を選んだのではないでしょうか?
無限列車編までの鬼滅の刃を振り返えりますと
「修行パートを経て敵をド派手な技で倒す」
友情・努力・勝利のジャンプ三大原則を満たした王道ジャンプ漫画と呼べる展開が多めでした。
しかし、無限列車編では、敵の軸となる戦法が精神攻撃です。
つまり、これまでの修行で培ってきた全集中の呼吸などの肉体面での強さが、ほとんど意味をなさない敵が現れたということになります。
この窮地を脱する起点となったのは、禰豆子の血鬼術と炭治郎の強固な精神力でした。
炭治郎の夢は、失った家族とのかけがえのない思い出が今も続いているというものでした。
幸せな夢の中に居続けたいという想いもありながら、禰豆子を元に戻すため、鬼殺隊の使命を果たすため、炭治郎は起きて戦うことを選びました。
対照的に描かれていたのは、鬼に従い炭治郎たちの心の核を破壊しようとしていた子供たちです。彼らは「幸せな夢の中にいたい」という理由で鬼に従っていました。
無限列車編は、現実から目を背けない炭治郎の精神面の成長に重点を置いたエピソードだったかと思います。
煉獄さんの見た夢
ここからが、今回の考察のメインとなります。
たぶん映画を視聴された多くの方が
「煉獄さんの夢ってほんとに幸せな夢なの?」と疑問を持ったかと思います。
そこで上記の「人の強さ」を踏まえた上で煉獄さんの夢を考察していきます。
今回の敵、魘夢(えんむ)は、幸せな夢を見せることで炭治郎たちを夢の世界に閉じ込めることを目論んでいました。
まず、煉獄さん以外の夢を振り返ると
炭治郎 → 失った家族との思い出
善逸 → 禰豆子ちゃんとのデート
伊之助 → 憧れの自分
3人の夢に共通するのは、現実を捻じ曲げた夢らしい夢であるという点です。
しかし、煉獄さんの夢はというと…
煉獄さんの見た夢は、他の3人とは違い、至極現実に近いものでした。
というか現実そのままだったかと思います。
ざっくり振り返えりますと
炎柱になったことを父であり元炎柱の槇寿郎に報告し、弟の刀の稽古を見てあげるというものでした。そこには今は亡き母の姿はなく、槇寿郎も「暴飲」「暴言」が絶えず、報告に来た煉獄さんに暴言を吐き部屋から追い出してしまいます。
夢であるならその気になれば
亡くなった母とも会えるし、暴言を吐く父も以前の優しい父にすることもできたはずです。
魘夢が、柱である煉獄さんだけには辛い夢を見せようとした?
結論から言うとこの説は、ないと思います。
魘夢は、この作戦のために念入りな準備をしてきたこと語っています。
もし柱である煉獄さんを警戒するなら、いきなり地獄のような夢を見せていたはずです。
さらに「幸せな夢を見せてから悪夢を見せるのが大好き」とも語っていたため、彼の性格から考えてもいきなり悪夢ということは考えにくいです。
となると、あの夢こそが煉獄さんの幸せであることが言えます。
人としての強さ
この夢の考察をするにあたって、映画の終盤の煉獄vs猗窩座のセリフが参考になります。
鬼にならないか?と誘いを受けた煉獄さん
「老いることも死ぬことも人間という儚い生き物の美しさだ」
「老いるからこそ 死ぬからこそ たまらなく愛おしく尊いのだ」
これこそが、煉獄さんの美学であり信念
猗窩座と煉獄さんは、共に武を極めた者でしたが
決定的な違いが、このセリフからもわかるように人としての強さであると言えます。
まぁー、猗窩座にも強くなれる理由があったのですが、それはまた別のお話(笑)
人間という生物を老いも死も含めて全て愛していると言っているわけです。
ここまでくると少し狂気じみているように感じますが、
この独自の哲学が煉獄さんの「人の強さ」の根底にあるものなのです。
老いも死も受け入れているわけなので、夢の中の登場人物が、現実そのままであるのも納得できます。
では、なぜ煉獄家のシーンだったのでしょうか?
猗窩座戦を終え、煉獄さんの最後の言葉に着目するとわかります。
弟へ「心のままに生きるように」
父へ「体を大切にしてほしい」
煉獄さんは、一見何を考えているかわからない人のように見えて
実は、誰よりも人のことをを見ていて
特に家族への想いは人一倍であることがわかるシーンとなっています。
どんな形であれ家族が、生きていること
それが、煉獄さんの「幸せ」
今回は、以上となります。
普段は、映画レビューをやってますので読んでいただけると幸いです。
それでは、よきオタクライフを!
アディオス